獣医師免許を有している人は、獣医師法第22条に基づいて、就業状況や現住所などを
2年ごとに届け出ることが義務付けられています。
獣医師は、農林水産省令で定める2年ごとの年の12月31日現在における氏名、住所その他
農林水産省令で定める事項を、当該年の翌年1月31日までに、その住所地を管轄する都道府県知事を
経由して、農林水産大臣に届け出なければならない。
今年は届出が必要な年で、1月中に書類を提出しなければなりませんでした。
集まったデータは農林水産省がとりまとめ、獣医師の数、就業状況や分布を
整理して発表しています。
昨今話題になった獣医師は足りる、足りない問題では、主にこのデータを
元にして様々な議論が繰り広げられていました。
一連の騒動で問題になった獣医学部新設の妥当性やそれに至った経緯について、
私の立場では特に言うことはありません。
ただ、獣医師は足りているのか足りてないのかについて、
獣医師をはじめ様々な立場の方が意見を発していましたが、
議論がそこで止まってしまっているという印象です。
獣医師の職域や地域によっては、足りていないのは事実です。
しかし問題は、獣医師が足りているのか、足りていないのかではありません。
それよりも大切なことは、
獣医学教育の質の向上であり、広く社会に貢献できる獣医師をど
のようにして養成していくか、
にあると思っています。
獣医師は誰もが例外なく動物が好きですが、
動物のためだけに獣医師が存在しているわけではありません。
獣医師の存在意義は、動物をとおして人類や社会に貢献することにあります。
獣医師法の第1条には獣医師の任務として、以下のように定められています。
獣医師は、飼育動物に関する診療及び保健衛生の指導その他の獣医事をつかさどることによって、
動物に関する保健衛生の向上及び畜産業の発達を図り、あわせて公衆衛生の向上に寄与するものとする。
獣医師に求められる役割は、時代によって変わってきます。
明治になって近代化を図る際には海外から畜産技術を導入することが最も重要であり、
戦時中には食料としての家畜だけでなく、軍馬が重要視されていました。
戦後には食料増産のための畜産振興が課題となり、その後はペットブームに伴って
愛玩動物、伴侶動物に対する獣医療が発展してきました。
そして現在は、様々な動物を取り巻く状況が劇的に変化しています。
人や動物や物が極めて短時間で世界中を行ったり来たりできるようになった今、
獣医師が果たすべき役割はますます複雑で多岐にわたっています。
そういった時代の変化に合わせて、私たち獣医師がそのありようを変えていかなければ、
社会から獣医師が必要とされなくなるのではないかという危機感が私にはあります。
これから人や社会から獣医師が必要とされるようになるためには、
いかにして獣医学教育の質を向上させていくかがカギを握っています。
そして、すでに獣医師免許を持って活動している獣医師も、一人一人が問題意識を
持たなければ、それこそ獣医師の仕事はAIに置き換えられていくものと思います。
獣医師の端くれとして私ができることは、一般の方への情報発信と考えています。
私は、病理検査や研究活動を通して、小動物臨床獣医師、産業動物臨床獣医師、公務員、
大学、民間企業など、普段から様々な立場の獣医師とやりとりをすることがあります。
世間では獣医師といえば犬猫の獣医さん、というイメージが圧倒的です。
しかし、表に立つことは少ないですが、私たちが安全に暮らしていけるように、陰で
支えていてくれる獣医師がたくさんいるということをもっと知ってほしいと思っています。
仕事上、色々な立場の獣医師と交流があることから、獣医病理学者として
獣医学全体を俯瞰したときの印象ですが、それぞれの獣医師が置かれている現状に
ついて考えてみたいと思います。
ただしあくまで私見なので、実情とは合わない部分があることは否定できません。
小動物臨床獣医師
いわゆる動物のお医者さんですね。
世間一般のイメージもそうですが、獣医学科に入学してくる学生、
そして卒業生にとっても、圧倒的に人気があります。
昨今の騒動の際には、動物病院はすでに飽和しており、獣医学部を増やしたところで
結局動物病院がさらに増えるだけ、という意見が大多数でした。
しかしながら、地方によっては動物病院がない地域もまだまだあります。
そういったところで亡くなった動物を病理解剖すると、犬糸状虫症(フィラリア症)や
犬ジステンパーなどの感染症で亡くなる子がけっこう多くいます。
近くに動物病院がない地域では、感染症の予防という考えがあまり普及していません。
また、動物病院がない地域では、よっぽどの症状がない限り動物病院を
受診することがありません。
そのような理由から、地方で亡くなった動物を病理解剖する際には、全身にがんが
転移して亡くなった動物、皮膚病で全身が脱毛だらけなのにどうしてここまで
放置していたのかと思う動物も多いです。
地方では、動物病院があったら予防できる病気、治療できる病気によって
亡くなる動物がたくさんいます。
一方、動物病院が飽和状態にあるといわれている東京、名古屋、大阪、福岡などの
大都市ではどうでしょうか。
確かに乱立しているといってもいい状況ではありますが、
まだまだ過渡期にあると考えています。
一昔前まで、動物病院といえば一人の獣医師が内科、外科、産科、眼科、皮膚科など
全てをこなさなければいけない状態でした。
しかし近年は各分野で専門化が進み、専門医制度が確立されつつあります。
最近では、各分野の専門医が集まる二次診療をする動物病院も増えており、
町の小さな動物病院の中でも、眼科、皮膚科、エキゾチック動物などの専門病院が
多くなってきています。
また、獣医師の診療や動物病院になくてはならない動物看護師については、
近年は公的資格化に向けて、認定試験の統一化が図られています。
このような状況を考えると、都市部では飽和状態にあるといっても、それぞれの
専門性や地域の特性を活かした動物病院ができる余地はまだあるかもしれません。
犬猫の飼育頭数は年々減少していることから、動物病院も今後そんなにいらなくなる
という意見もあります。
確かに飼育頭数は減少傾向にありますが、中には家族形態の変化や家庭の事情などで
動物を飼育できない方がけっこういらっしゃいます。
また、いまだに盲導犬、聴導犬、介助犬などの身体障害者補助犬に対する
無理解が社会にはあります。
家庭で動物がうまく受け入れられるように、そして人と動物がより良く共生して
いけるように、社会の仕組みを変えていく努力が獣医師には求められているのでは
ないかと思っています。
産業動物診療獣医師
主な産業動物には乳牛、肉牛、豚、採卵鶏、ブロイラーがあり、それぞれ分けて考える
必要はありますが、全体としては、産業動物を飼育する畜産農家や全体の飼育頭数は
減っている一方、一つの農家が飼育する動物の数は増加している傾向にあります。
産業動物を診療する獣医師として、①産業動物開業獣医師、②農業共済組合(NOSAI)
や農業協同組合(JA)などの農業団体に所属する獣医師、
③民間企業に所属する獣医師などがいます。
小規模な畜産農家や産業動物開業獣医師では、新たななり手が少なく、
高齢化が進んでいます。また、農業団体に所属する獣医師は団塊世代の
大量退職に伴って、ベテランが少なくなっています。
産業動物の獣医師といえば、従来は乳房炎や繁殖障害、関節炎、肺炎、下痢などの
診療や人工授精、飼育管理や衛生管理の指導といったところでした、
しかし近年は、畜産の大規模化に伴って、畜産経営のコンサルティングまでも
獣医師に求められています。
産業動物の診療は往診が基本ですが、畜産農家の減少や大規模化に伴って
診療拠点の統廃合が進み、往診のための移動に非常に時間がかかって
大変という声をよく聞きます。
私が産業動物獣医師とこれまで関わってきた経験では、産業動物獣医師になる人は、
獣医学部に入学した当初から産業動物に関心があって志が高かった人が
多いという印象です。
中には小動物臨床を目指して大学に入ったけど、産業動物のことを知ってそちらに進む
というケースもありますが、それはかなり少数です。
私たちが食物を得て生きていくためには、産業動物に由来する乳、肉、卵は欠くことが
できない大切なものです。中でもタンパク源としての畜産物は、健全な成長や健康維持に
とって極めて重要です。
いま、世界では人口が急増しており、発展途上国の増加がとくに顕著といわれています。
それらの国が経済発展を遂げて食生活に変化が生じたとき、日本で起きたのと同様に、
家畜や畜産物の需要が高まるものと予想されます。
食料の取り合いが起こるかもしれません。
そうなったとき、私たちはこれまでのように、
食べたい物を食べたいときに比較的自由に手に入れることはできるでしょうか。
食料を確保するという意味で、国内の農業や畜産業の衰退は歯止めをかけなければなりません。
それと同時に、多様性を守ることも大事だと思います。
輸入するだけでは食料の安定的な確保に不安がありますし、かといって国内だけで
全てを賄うことはできません。
牛だけ、豚だけ、鶏だけというのでも、大規模な農家だけとか小規模な農家だけとかでも、
農薬を使った作物だけでも、無農薬や有機作物だけでもいけません。
一つだけというのは、何か問題があったときに全てがダメになる可能性があります。
何かあったときに、それを補うことができるように多様性を維持していくことが重要です。
私たちが毎日安全に畜産物を食べていけるのは、畜産農家や産業動物獣医師が日夜
奮闘して健康な産業動物を育て、安全なお肉や乳、卵を生産しているおかげです。
産業動物獣医師がいなければ、家畜が健康に育つことができずに農家の経営が行き詰まり、
毎日当たり前のようにして手に入れている新鮮な畜産物を食べることも難しくなります。
畜産や食を守ることは、国民が生きていくには必須であり、
国の根幹をなすものであると思いませんか?
そういったことを国や行政は理解して、数十年、百年先も見据えた産業の振興や育成が必要です。
大学や関連団体も、獣医師を志す学生にとって、業動物獣医師が魅力ある職業になるように、
教育を改善していく努力が必要だと思います。
公務員獣医師
公務員獣医師には国家公務員と地方公務員があり、前者は農林水産省や厚生労働省、
後者は都道府県や市町村の獣医師になります。
国家公務員には担当によって様々な役割がありますが、検疫所(厚生労働省)や
動物検疫所(農林水産省)に所属して、輸出入される動物や畜産物、食品の安全性を検査し、
まさに水際で食品の安全性を獣医師が確保しています。
国家公務員は毎年数名の応募であり狭き門です。
昨今取り沙汰されることが多かったのは、地方公務員獣医師の不足問題です。
獣医師のどの職域にも比較的共通していることですが、公務員獣医師にも地域格差があり、
首都圏、大阪、京都、愛知といった都市は人気がありますが、地方によっては
採用がままならないとことがあるというのが実情です。
公務員獣医師の待遇が問題視されることが少なくありませんが、公務員ということも
あって収入は安定しており、福利厚生も充実しています。
そのことから女性には人気がありますし、職場によっては休暇を取りやすいことから、
長期休暇をとって趣味や海外旅行を楽しんでいる獣医師もいます。
この点は小動物臨床獣医師にはない魅力のようで、卒業後に動物病院に就職したけど
公務員試験を受けなおして公務員獣医師となる獣医師も毎年けっこういます。
反対に、公務員獣医師にとっては、せっかく獣医師になったのに資格が全然活かされない、
行政特有の事務処理に時間がかかる、といった不満から公務員を辞めて小動物臨床獣医師
になる獣医師もいます。
公務員獣医師は配属される部署によって業務が非常に多岐にわたり、本庁、動物愛護センター、
食肉衛生検査所、家畜保健衛生所、動物園などがあって、数年ごとに異動も頻繁に行われます。
色々な経験ができることは、公務員獣医師の魅力だと思います。
食肉衛生検査所では、畜産農家が大切に育てた家畜を一頭一頭丁寧に検査しており、
食品としてスーパーや飲食店に出回るには、食肉衛生検査所で獣医師の検査を
受けなければなりません。
家畜保健衛生所は家畜の伝染病の流行を防ぎ、畜産農家に衛生指導をしています。
昨年から岐阜で発生している豚コレラについても、家畜保健衛生所の職員が対応しています。
これらは産業動物臨床獣医師と同様、産業動物に関わる重要な職域です。
一方、公務員獣医師にはその他にも様々な役割があります。
飲食店や食品を製造するお店を始めるときには営業許可を受ける必要がありますが、
食品衛生監視員という、保健所に所属する獣医師が、営業の許認可に関わっています。
食品衛生監視員の業務の中には、収去検査といって、お店に出回っている様々な食品を
抜き取り、食品が衛生的に取り扱われているか、安全性に問題はないかなどをチェック
しています。ほかには食中毒発生時の調査、行政処分、検査にも関わっています。
また、保健所には環境衛生監視員と呼ばれる獣医師もいて、旅館、興行場(映画館など)、
公衆浴場、美容所、理容所、クリーニング所の開設時の許可や立ち入り検査、
衛生指導にも関わっています。
他にもビルや特定建築物、プール、墓地や火葬場の衛生指導など、
極めて多岐にわたる業務を行っています。
といってもこれら全てを獣医師が独占しているわけではなく、
薬剤師など他の資格を持つ専門職の方もいます。
公務員獣医師は、確かに地方によっては定員割れのところが多く、対策として少しでも
待遇を改善ようとしている自治体もありますが、ほとんど効果はないようです。
一方、公務員に対する市民の目、苦情処理、行政としてのコンプライアンスなど、
公務員獣医師が置かれている現状は厳しいものもあります。
公務員獣医師問題の根本には、公務員獣医師としての魅力に加え、
一般の方の認知度の低さがあるのではと思います。
しかし、それよりももっと大切と思っていることがあります。
それは、
獣医師という専門職に捉われることなく、獣医師が行政にもっと深く関わっていくべき
だというところです。
獣医師が専門職の垣根を越えて行政に深く関わっていかない限り、
現状は変わるものではありません。
獣医師には、市民が安全に生活していけるように、陰で支えている多くの役割があります。
獣医師が行政の取り組みに積極的に関わるということは、市民の安全に直結することであり、
それが地域活性化にもつながっていくものと思います。
そのような取り組みによって地域に魅力が生まれれば、
公務員獣医師不足も少しは解消されるのではないでしょうか。
そのためには、私たち獣医師が意識を変えていく必要があります。
獣医師が処遇改善を自治体に訴えるばかりでは、また、自治体にとっては
獣医師が来てくれないと嘆くばかりでは、何の解決にもなりません。
獣医師が行政や自治体を変えていくという意識が必要であり、
そのためには大学での教育が大きな役割を果たすものだと思います。
そして、行政というとどうしても閉鎖的というイメージが拭えませんが、
公務員獣医師も同様で、なかなか他分野の獣医師とオープンに交流することが
難しいところがあります。
公務員獣医師の魅力や存在意義を高めていくためには、獣医師の官民交流も必要であり、
それが市民へのアピールになり、しいては待遇改善につながっていくのではないでしょうか。
ライフサイエンス、大学
近年の分子生物学の目覚ましい発展により、研究はどんどん細分化が進み、
分野の垣根がなくなってきています。
これは獣医学の基礎研究においても同様です。
私は獣医病理学をとおして色々な基礎研究にも関わっていますが、他分野の研究者と
交流していると、獣医学の基礎研究が遅れをとっていると痛感します。
研究の垣根がなくなってきている現在、獣医学の中だけでなく、積極的に他分野にも
出ていくべきであり、他分野の知識を取り入れていく努力がもっと必要かと思っています。
医学、薬学、歯学、栄養学など他分野で活動している獣医師はいますが、
まだまだ少ないです。
基礎研究の分野では年々、実験動物の使用数を減らす、他に代替法があれば置き換える、
やむなく実験動物を利用する場合も苦痛を極力軽減させる、という方向になっていますが、
それでも生命現象の解明や医薬品をはじめとする化学物質の開発には、
まだまだ実験動物の使用が欠かせません。
実験動物を利用するには獣医学的管理が当然必要になりますが、それでも獣医学以外の
分野では獣医師が関わることなく、実験動物が利用されていることが多くあります。
そういったところも獣医師がまだまだ責任を果たしていかなければならないところです。
研究といえば大学教員によるものが大きいですが、
獣医学部の大学の先生と話をすると、講義や実習が忙しくて研究の時間が取れない、
という声をよく聞きます。
私はこれにはけっこう違和感があります。
大学の教員が第一義的に考えなければならないのは、本来教育のはずです。
今回、様々な獣医師を取り上げましたが、広く社会で活躍することができる獣医師を
育てるのは、大学に課せられた最も大きな使命です。
獣医師が足りる、足りないはそんなに大きな問題ではありません。
目まぐるしく状況が変わっている現在、人や社会から獣医師が本当に必要とされるように
なるには、今まさに獣医学教育の質の向上が必要です。
状況を改善していく努力が求められると思っています。