「遺伝子を調べれば全てが分かる」と思っている方は、案外多いのではないでしょうか。確かに遺伝子単独の異常によって引き起こされる病気はあります。
しかし多くの病気は、外的な環境要因と内的な遺伝要因の両方が少なからず関与しているものと思います。
生活習慣病の多くは日常の生活習慣という環境要因だけでなく、遺伝要因も決して無視できるものではありません。不摂生な生活をしていても病気にならない人もいますし、どれだけ健康に気を付けていたとしても病気になる人もいます。
がんも同じように、がんになる・ならないは遺伝子だけで決められているわけではなく、やはり環境要因も無視できない場合が多いのではないでしょうか。
一方、感染症では、病原体という外的な要因のみによって引き起こされる病気と思われるかもしれません。ところが感染症の場合でさえ必ずしもそうではありません。感染に対する宿主の免疫反応もやはり、遺伝による個人差が感染症を発症するかしないか、重症か軽症かを左右する場合が少なくないものと思います。
近年の遺伝子解析技術の進歩は目覚ましく、研究者なら誰でも簡単に遺伝子を解析できるようになってきました。また、研究者でない場合も、遺伝子検査に対するハードルはかなり下がってきているように思います。
しかし、遺伝子の異常が今現在の病気に直結するとは、必ずしも言えないことにご注意ください。病気の多くは遺伝子がすべてというわけではなく、確かに遺伝子によって病気になりやすい傾向は規定される部分もありますが、それ以外の要因も無視できません。
動物の感染症を診断する際にも、病原体を遺伝子検査によって調べることが普通になってきました。
病原体を分離、培養して同定するという従来の検査では、確定に数日から数週間かかることもある一方、遺伝子を調べるだけならものの数日、場合によってはその日のうちに結果が出せることもあるから確かに便利ではあります。
遺伝子検査はとても便利なものですが、感染症を診断する際に注意しなければならないことがあります。それは、遺伝子検査で病原体が検出されたということは、その病原体の遺伝子が存在するということに過ぎません。病原体の遺伝子を調べるだけでは、その病原体が生きているのか死んでいるのかの判断がつかないのです。
人の医療ではそんなことはありませんが、動物では、病原体の遺伝子が検出されたからという理由で安易な診断や治療に向かってしまっている部分がけっこうある気がしています。
感染症を発症するかしないかを決定するためには、宿主側の要因と病原体側の要因の両方を吟味しなければいけません。感染症の成立にはさらに感染経路という要因も大事です(手洗いやマスクは、感染経路を遮断しているということ)。
宿主側の要因を調べるためには、患者情報、症状、各種の検査を総合的に判断して、感染症を発症しているか、発症していたとしたらどの程度の重症度かなどを考えます。
一方、病原体側の要因を遺伝子検査だけで済ませるとすると、病原体の生死に関わらず、病原体の遺伝子が存在するということが分かるに過ぎません。私たち人や動物にも個性があるように、病原体もやはり生き物ですから、同じ病原体でもその株によっては病原性が異なる場合があります。
その病原体がどれくらい悪いかどうかを調べるためには、病原体を生け捕りにして飼う、すなわち培養して病原体の性状をしっかり見極めなければなりません。そこから場合によっては病原性を発揮するための遺伝子を調べることがありますが、病原性の遺伝子が確認されたとしても、実際には病原因子を発現していない場合さえあります。
私たちが生き物を飼う場合だって、その生き物が飼いやすいのか飼いにくいのかは飼い主によって異なりますし、いくら本で知識を得たとしても、実際に飼ってみなければその動物のことは理解できません。病原体も同じで、実際に飼う、すなわち培養してみなければ、その病原体の個性までは分からず、病原体を理解することにつながりません。
人や物が短時間のうちに世界中を行き来することが可能となったということは、微生物にとってもそれらに付随して国境を越えた移動が可能となったということを意味します。また、近年の気候変動によって生態系の変化が危ぶまれていますが、生態系が変われば微生物や病原体にとっての生態系も変化します。
がんの治療が飛躍的に進歩し、がんがすぐに死と結びつく病気ではなくなりつつあります。
歴史的に見れば、抗生物質やワクチン、あるいは清潔な生活による感染症の減少が寿命の延長に結びつき、がんの増加につながったという経緯があります。
今度はがん治療の発達によってがんが死の病気ではなくなると、再び感染症の時代が来るのではないかという気がしています。
そして次に来る感染症の時代は、薬剤耐性菌も含めより困難な感染症が待ち受けているのではないでしょうか。
近年人で問題となっている感染症の多くは、動物、とくに野生動物に由来する感染症といわれています。これから来るであろう新たな感染症の時代のために、私たち獣医師はもっと動物の感染症の問題に真剣に取り組んでいかなければならないのかもしれません。
薬剤耐性菌の問題は人の医療だけの問題ではなく、獣医師も動物への安易な処方によって薬剤耐性菌を作り出さないようにしていかなければなりません。そして感染症を診断する際にも、病原体の遺伝子の有無だけでなく、病原体を生け捕りにしてきちんと検証する作業をするのが理想です。
私も病理解剖をとおして色々な動物の様々な感染症を診断していますが、病原体を生け捕りにできなかったばかりに確定診断できなかったケースがたくさんあります。動物では、検査体制が人の医療ほどに確立されていない部分が多いのが現状です。
いっそのこと自分で生け捕りにしようと思ったこともあるますが、なかなかそこまでは手が回りません。でも、きたるべき新たな感染症の時代のために、感染症や病原体のことをもっと真剣に考えていきたいと思っています。動物の感染症を理解ししっかり向き合うことは、人の健康にもつながる大きな社会的な使命だと考えています。